チベット仏教の護摩法要を見に行きました

今日は時間があったので、埼玉県は大徳寺という真言宗のお寺で開かれたチベット仏教護摩供養の法要まで足を運びました。
パトゥル・リンポチェ4世(略歴)というチベットから来た僧侶が護摩を執り行い、在日チベット人の方や日本人など50人程度が参加されていたようです。供養は、境内に設置したかがり火を囲み、参列者やリンポチェが真言のようなものを唱える中コーヒー豆や麦類、バターなどを混ぜ合わせたものを火にくべていきます。最後にリンポチェが経典を詠唱し、紙(参列者が何かを書いたもの?)を線香などを差す寺の台にくべて終了です。
参列者が豆などを火にくべる行為は、身の罪業を滅ぼすものだとか。時間はおよそ1時間40分。写真を撮る機会はありましたが、そんな気分になれなかったので撮っていません。


私はチベット仏教はまったく知らなくて、少し離れたところから法要をじっと見ていました。今回は「チベットの暴動で亡くなった人々を供養する法要」とのことで、今の状況で私なりにできることをと思って足を運んでみたのです。
お経の文句も儀式の意味もさっぱりわからなかった(法要の後で、リンポチェが通訳を介して解説してくれましたが)が、リンポチェと唱和する人々の声の音色は、まず音楽として美しかった。洗練された声の抑揚は、とても綺麗な音で鳴る鈴とあいまって聞き飽きず、ひとつの完成された信仰の世界が目の前にある、ということが実感できました。
この世界を、中国共産党はこの世から滅ぼそうとしている。少なくとも共産党側が介入を強め、チベット人固有の宗教観を徹底的に管理しようとしている。私はこれまで、チベットの問題は人権や民族自決権の問題だと思ってきました。ですが法要を見ていて、共産党唯物論チベットの宗教観という、まったく相容れない二つの思想の対立こそがもっとも問題なのかもしれないと感じました。
中国共産党からすれば、宗教など存在する意味がわからないのではないでしょうか。せいぜい封建的権力の代表格で、階級闘争的には打倒されるべきものとぐらいしか認識していないのかもしれません。確かに以前紹介したように、チベットでは僧侶階級が庶民を農奴としてこき使い、多くの人々に貧困と短命を強いてきたといわれます。しかし、来世に自分の人生を仮託するチベットの宗教観で、僧侶はとても大切な存在です。前にも書いたように、これを前近代的な生活に庶民を縛り付けるナンセンスな考えだ、と私たち断じるのは簡単ですが、残念ながら私たちはチベット人ではなく、地元のチベット人に意見を聞いたことすらないんです。彼らに私たちの考えを押し付けるのは、安っぽい進歩主義的思考が透けて見える不明も含めて、あらゆる意味で傲慢というものでしょう。
実際、中国共産党が莫大な資金を投資し、開発を進めたとされる地域で、チベットの人々は僧侶の声に呼応して暴動を起こした。本当に経済が彼らを前近代性から開放し、幸せにしたのであれば暴動など起こらないはずでしょう。ガス抜きのために中国共産党が仕掛けた可能性も指摘されていますが、仮にそういう思惑があったとしても、もう現状はそんな共産党の目論見を超えて悪化しているはずです。
中国共産党は、60年もチベットを支配しておきながら、彼らがすべる民の心を何一つ理解しようとせず、また現状に至っても理解できないのかもしれません。同時に中国共産党は、そして中国共産党を擁護する日本の文化人も、イギリスを筆頭にして精神的な虚無感、ニヒリズムに侵食されている先進国ほどチベット問題に熱心である理由を、理解することはできないのでしょう。……、おそらく、たとえばイギリス人たちはチベット仏教の実際もよく知らないまま、キリスト教のフィクションを信じきれない自分の精神を補完しようとしているという、とてもいい加減な話なんですけどね。


それにしても、普段は反権力とかいってる一部の日本の文化人(前に紹介した田原総一朗氏などは典型ですね)が、なんでチベット問題では中国共産党と同じ見解を述べなきゃいけないのか不思議ですね。内政干渉とかヨーロッパの批判は中国への嫉妬だとか、五輪と政治問題を結び付けちゃいけないとか、まるで文化人が(政治家も)中国共産党のスポークスマンのようです。一度でいいから、それと同じ態度で日本の政治を語ってみればいい。小泉政権について、福田内閣について。政府の見解をそのまま自分の意見としてしゃべってみれば、自分のしていることの異常さを認識できるのではないでしょうか。