致命的なこと

私のこれまでの致命的な弱点が、ひとつはっきりした。命令できないことだ。
私は情報公開と意思疎通を原則としてきたんだけれど、議論をすることで理解を求め、自発的な行動を促すことをよく選択してきた。
けれど、それが中途半端だったらしい。


いや、もちろん指示を出したことがまったくなかったわけではない。
が、明確な指示はレスポンスを求められて出すものが多かった。対して、自分から踏み込んで指示を出すことは少なかったように思う。
これが中途半端なんだよね。
どれだけ口で説明しても、違う文脈と背景に生きる相手にはうまく伝わらないことの方が多い。だから、無理押しでも必要であれば明確に指示を出したほうが良い場合がある。
人になにかを多く求めれば求めるほど、私も人からなにかを求められる。それを避けたくて、曖昧な関係から相手の自発的行動を促すという手法を選んできたのではないかと問われれば、否定できる自信がない。
そんな感じ。

メモ

現在ネット上で発生している様々な「社会」って、現実での人間のコミュニケーションのあり方が極度に捨象された姿だとも言えるんじゃないだろうか。
メールから掲示板、ブログやSNSとネットでの交流フォーマットやプラットフォームの方向性などは、現実社会での諸相を参照して作り出されてきた。けど、一方でそういうインフラを利用してネット上で発生している人と人のあり方には、逆に現実にフィードバックできる様相があるのかもしれない。


もしそうなら、ネット上での人の存在にはひとつの大きな原理がある。「言挙げなくして存在がない」点だ。
まず「私が誰か、どんな人間か」と、プロフィールや何かの事柄に対する自分の意見をネット上に書き込む。そうしてSNSなり掲示板なりのコミュニティにいる読み手たちに「与え」なければネット上の社会に自分は誕生せず、存在もできない。ネットには現実社会での身体がなく、データしかないんだから当然だ。
そしてこの点は、現実社会にもフィードバックできるのかもしれないと漠然と思った。人はどのようにして社会に存在しているのか。現実ではむしろ身体や現物の圧倒的な存在感に依存し、自らの能動的な行動や価値観が自らを中心としたネットワークを作っていく点を軽視しているかもしれないこと。それだけではなく、人そのものはどの方向性で存在を始めるのか、ということ。


あくまで、検証を要する今時点での思いつきということで。


上記と無関係なメモ:
企業にも定言命法的なものが必要なのか?

指導者が明かす復帰の裏側

伊達、単複ともに決勝進出 女子テニス・カンガルー杯asahi.com

スポーツライターの内田暁さんのサイトで、今回驚きの大会復帰を果たされたテニス選手、伊達公子さんの指導をされていた小浦武志日本テニス協会強化本部長のコメントを載せておられます。
小浦氏が語る、伊達快進撃の「現実の裏の真実」

これは味読する価値ある記事ですね。私は特に、

若い選手に学んで欲しいのは、(伊達は)あるゾーンに入ると、周りが一切見えないような状態になる部分。そのゾーンの切り替えの出来る選手というのは、凄いですね。セカンド(セット)を落としても、ファイナルにまた違うギアで入り、最後、超高速に入る。
ただ、今の彼女が昔と違うと思うのは、前は取りたいポイントを取れなかったとき、感情のコントロールが出来なかったことがあったと思う。それが今は、感情の乱れが全然出ない。
だから、見ているお客さんはとても楽しいのではと思います。お客は、絶対にもういっぺん見たくなると思いますよ、あのテニスを。

や、

僕が練習に付き合った冬場では、朝6時頃から起きてランニングしたりして、9時くらいから5時くらいまでテニスコートに居た。そして夜に(体の)トリートメントをやっている。すごく練習する代わりに、すごく食事をとり、よく寝るということをしているうちに、どの辺で彼女が「現役復帰したい」と思ったかは分からないけれど、おそらく1月頃だったのではないかと思います。
それで、3月10日だったと思いますが、練習見ていたときに、旦那と二人で「復帰したい」と言ってきた。
練習量は、ハンパじゃないですよ。「もう止めとけ」と言ったくらいですから。

といった箇所に感銘を受けました。


今回の大会では有望な若手を次々と破っているそうですが、上のリンクで明かされたような猛訓練に加え、恵まれた身体能力やテニス勘、そして若手を圧倒する試合経験も当然伊達さんに有利に働いているのだとは思います。
ですが、私にとっては大会でのパフォーマンス以上に、伊達さんが1人の人間として自由に、鮮やかに生きている姿がとても印象深い。


テニスだけではなく、野球やサッカー、あるいは卓球など、若いころからプロスポーツ入りする人々はさまざまな人やものに囲まれていますよね。
指導者や学校、クラブ、協会やスポンサーといった人々。彼らに後押しされ、多くの人が得られないような金銭や栄光はその手につかみますが、果たして彼らはどこまで進む道を自分自身で選び取っているのでしょうか。
周りに押されるままにスターダムに担ぎ上げられ、転落はせずとも自分の方向性を見失っていくスポーツ選手を見る機会は決して少なくありません。もしかして伊達さんが11年前に早すぎる引退を選んだのは、怪我やランキング制度の変更などに加えて、そうした葛藤があったからかもしれませんね。


そんな中で、今回の伊達さんはまことに「非常識」です。
エバートやナブラチロワなど、比較的年齢を重ねても活躍した女性選手もいるとはいえ、ブランクは11年、30代後半でプロの大会に復帰するなんておよそ非常識で、彼女を知るテニス関係者の誰もが予想だにしなかったはずです。
さらに驚くべきは、大会での彼女のパフォーマンスは往年の名プレイヤーの道楽といった次元ではなく、実際の勝利に向けた真剣な試みだったことです。周囲の「常識」よりも、彼女は自身が算出した「勝算」を信じた。そしてその実現に向かって自分を磨き続けた。
伊達さんが今、何を志しておられるのか私に詳しく知る由はありません。が、外から彼女の活躍を眺めていると、おそらくは今一線にたっている日本のプロテニス選手の誰よりもテニスをプレイする喜びと意義を感じ、自己実現をしているのではないかと思えてなりません。


プロテニス業界を取り巻く集団や彼女の周囲の意識に埋没することなく、彼女自身の合理性を持って考え、決断する。そしてそれがどれだけ破天荒であっても努力し、目標をかなえていく。
彼女の復帰の道のりは始まったばかりで、拙速な判断は控えるべきですけれども、こうした姿勢こそ、学校からご近所、親族や会社まで、所属集団にがんじがらめとなって自ら自由に思考し志向することの難しいこの国の社会をも明るくしていくかもしれないと思いました。

あなたの笑顔に葛藤はないのですか?

萩本欽一さんのインタビュー動画・ノーカット版(環境によってはものすごく重いかも)
この会見動画で萩本さんは「走っている最中に自分から笑顔がなくなってしまった」と語っていますが、なるほど、笑顔でいることすらもできなかったわけですね。
「笑顔でいるべきときは、いかなる状況でも笑顔であるべきだ」と最初に萩本さんがお考えだったとすれば、それはもうひとつの信条と言うか、思想だったと思うんです。中国だチベットだと物騒な今だからこそ、平和の象徴である聖火を高く掲げ、にこやかに走り去る。それは立派なお考えだったと思います。
けれど、彼は果たせなかった。その胸中にどんな思いがあるのか私には忖度できませんが、少々中途半端というか、不徹底だったかもしれません。萩本さんが平和や「笑顔でハイタッチ」とかひょうきんにしゃべってるそのそばで、……巨視的に考えれば……死体が積み上げられている。チベットの人間も、中国共産党の人間も、命を懸けて争っている。それでも、平和の祭典の象徴を預かる走者として笑顔を浮かべて走る。聖火ランナーを辞退することもなく、それなりに歳をとっている彼が選んだ道は、そこにあるはずでした。けれど、残念ながら歳相応の想像力と熟慮が足りなかったようです。
まあ萩本さんは、利己的な動機から選択したことを国のせいにした星野仙一さんよりははるかにましです。あるベテランスポーツ記者が「スポーツ選手で社会人として通用する常識人は、星野仙一とサッカーのカズぐらいだ」と語っていましたが、私はもともと彼のことをあまり好きになれません。中日から阪神に行った際の経緯で決定的になって、私は当時阪神ファンでありながら、星野フィーバーにあまり感情移入できませんでした。というか、星野氏がフィーチャーされてきた頃合から野球自体を見なくなっていったのですが。
ともあれ、萩本氏も星野氏も、会見では現状に対して「心を痛めています」という言葉すらなかった。星野さんに至っては、金かコネか知りませんが、そんなものを後生大事にして現実に目をつぶり、耳を塞いでいた。こんな人々がこのセレモニーで日本を代表しただなんて、日本人の見識を問われそうでこちらの気が塞ぎます。


さて今日は、日本の沿道で赤い中国旗が一斉に打ち振られる映像がテレビで流れたわけですが、これに対する日本国民の感情はどのようなものなんでしょうか。理屈で考えると、以前の上海などでの反日デモのような嫌悪感を国民に持たせても不思議ではない気がします。
そもそも世界を巡る聖火リレーなんてやる必要が全くなかった(このリレーは前回のアテネ五輪から始まったというか、アテネではオリンピック発祥の地として特例的に行われただけですし)、という事実を知らないまま人々が今日の映像を見たとしても、おそらく巨大な不快感が残りますよね。五輪は中国だけが出るイベントじゃない。中国はむしろホストであるに過ぎず、ゲストは世界の人々です。そうした「五輪精神」もへったくれもなく、自分たちのナショナリズムだけを前面に押し出すその姿は見ていて楽しいものではありません。
そして、今日映像でとらえられた中国の人々の姿は、どこか数年前の上海や北京での反日デモの記憶と重なるものがあると思うのです。もっとも当時の反日デモよりもはるかに紳士的で、テレビ映像もかなりの部分闖入者にフォーカスされてましたけれど。
正直なところ、日本人の多くはチベットウイグルの問題に軽い同情心こそあれ、それほど関心があるわけではない。けれど、今日の赤い旗と喧騒を見て、過去の不快なデモの記憶が人々の心裡に蘇る可能性もありえた。まあ、実際そういう作用を人々に及ぼしているかどうか私にはわかりませんし、これで日本人がまた中国人に根深い不信感を持つようになったとしても、それは単純に中国共産党の自業自得でしかないわけですけれど。


あと素朴な感想ですが、今回の組織化された在日中国人の動きを公安の人たちはちゃんとトレースしてるんですよね?大使館や全日本中国留学生学友会などの民間団体から学生や一般社会にまぎれた中国人へと「指令」が伝播していく過程を明らかにできる、なかなか良いケーススタディになったと思うのですが。今回の長野での聖火リレーで在日中国人たちが示してくれた事実は、ガス田がきっかけか台湾がきっかけかわかりませんが、日本にいる中国人たちはこんな形で迅速に集合し、組織だった行動を起こせるってことですよね。

JASRACへ公取が立ち入り調査

心躍るニュースですねえ。
公取委,独禁法違反の疑いでJASRACを立ち入り検査IT Pro

公正取引委員会は2008年4月23日,独占禁止法違反の疑いで日本音楽著作権協会JASRAC)を立ち入り検査した。公取委が問題視したのは,JASRACが放送事業者と結ぶ「包括的利用許諾契約」の内容である。包括的利用許諾契約で放送事業者は,前年度の放送事業収入の1.5%をJASRACに支払うことになっている。このため放送事業者はJASRAC以外の著作権などの管理事業者の管理楽曲を使う場合, JASRACとその管理事業者の両方に楽曲の使用料を支払わなければならない。
 そのため放送事業者は楽曲の年間使用料を減らすため,JASRAC以外の管理事業者が管理する楽曲の使用を控えかねない。
そこで公取委は,「(JASRACの包括的利用許諾契約は)ほかの管理事業者の事業継続を困難にしかねないと判断した」という。これに対してJASRACは,「現時点では公取委がどのような理由で立ち入り検査を行ったか把握しておらず,コメントできない」としているが,検査には「全面的に協力をする」という。(強調はatomon)

排除型私的独占ということのようですので、落着点としては(進んだとして)排除措置命令というところでしょうか?これでJASRACがどうこうなるわけではありませんけど、この組織のあり方、そして日本の著作権管理のあり方が良い方へ進むきっかけとなってほしいです。……というか、私は不勉強でよく知らないのですが、公益社団法人が私的独占で摘発されたケースなんて、過去あるんでしょうかね?特殊法人などが談合で、というものなら枚挙に暇ありませんが……。


JASRACWikipedia)は公益社団法人でありながら著作権料などの年間徴収額は約1000億円といわれ、その幹部はほかの社団法人よりぬきんでた高給をもらっていたことが判明しています。JASRACはどの著作権物がどれだけ使われ、その結果どれだけの著作権料が発生したのかという詳細なデータを公表しておらず、年間、月額一律でいくらという著作権料の請求の仕方をしています。著作権料の著作権者への分配も一律で、徴収した著作権料から差し引かれるJASRAC自らの経費額の妥当性などは、外部からは検証できない。
今回問題になっている許諾契約は、放送局へ有利なパッケージ契約を提供する代わりに(だから、テレビ局は自分の番組で映画やドラマ、アニメのサウンドトラックを使い放題なわけです。JASRACはぼろもうけ、そして利用量に応じたキャッシュバックなど、作曲者には行きません)、ほかの管理団体を事実上寄せ付けない条項を盛り込んであったということで、とても公益団体のすることとは思えません。


「ほえない番犬」とからかわれることの多かった公取ですが、2006年1月の独占禁止法改正以降、談合事件の摘発でかなりがんばった印象がありますね。新聞社の再販制度にも、独禁法の適用除外から解除しようと動いたこともあります。
福田内閣になって妙に静かになっているなあと思っていたのですが、JASRAC調査で「公取ここにあり」と気勢を上げたと見るべきか、政権が旧式自民党に変わって談合事件にも手を出せず、とりあえずの得点稼ぎをしたと見るべきか。2006年の法改正後に公取に行って、課長さんから話を聞いたことがありますが、「私たちは実績を求められている」と力を込めて話していたのが思い出されます。


私自身は今のところ、著作権を可能なかぎり一括管理する考え自体には賛成です(可能な限り、ですので独占してほしいとは思ってません)。各事務所が管理する方式もありますが、もし1曲のロック曲の歌詞や曲、アレンジ、歌唱などの著作権が異なる事務所や個人に管理されてしまうと、使用許諾でとても不便になる可能性がある。ですが、JASRAC天下り問題が指摘されるなど、あまりにも管理団体として不透明です。小さな飲み屋のピアノ演奏などからも徴収するコワモテぶりも嫌悪の的で、Public Interestを考えない公益法人という皮肉を口にしたくなります。
ですので、クリエイティブ・コモンズのような取り決めをみんなで遵守したり、著作権法に詳しい学識経験者や法曹関係者を中心としてより透明性の高い財団などの公共団体を作り、そこで管理することはできないのかと思ったりします。

チベット仏教の護摩法要を見に行きました

今日は時間があったので、埼玉県は大徳寺という真言宗のお寺で開かれたチベット仏教護摩供養の法要まで足を運びました。
パトゥル・リンポチェ4世(略歴)というチベットから来た僧侶が護摩を執り行い、在日チベット人の方や日本人など50人程度が参加されていたようです。供養は、境内に設置したかがり火を囲み、参列者やリンポチェが真言のようなものを唱える中コーヒー豆や麦類、バターなどを混ぜ合わせたものを火にくべていきます。最後にリンポチェが経典を詠唱し、紙(参列者が何かを書いたもの?)を線香などを差す寺の台にくべて終了です。
参列者が豆などを火にくべる行為は、身の罪業を滅ぼすものだとか。時間はおよそ1時間40分。写真を撮る機会はありましたが、そんな気分になれなかったので撮っていません。


私はチベット仏教はまったく知らなくて、少し離れたところから法要をじっと見ていました。今回は「チベットの暴動で亡くなった人々を供養する法要」とのことで、今の状況で私なりにできることをと思って足を運んでみたのです。
お経の文句も儀式の意味もさっぱりわからなかった(法要の後で、リンポチェが通訳を介して解説してくれましたが)が、リンポチェと唱和する人々の声の音色は、まず音楽として美しかった。洗練された声の抑揚は、とても綺麗な音で鳴る鈴とあいまって聞き飽きず、ひとつの完成された信仰の世界が目の前にある、ということが実感できました。
この世界を、中国共産党はこの世から滅ぼそうとしている。少なくとも共産党側が介入を強め、チベット人固有の宗教観を徹底的に管理しようとしている。私はこれまで、チベットの問題は人権や民族自決権の問題だと思ってきました。ですが法要を見ていて、共産党唯物論チベットの宗教観という、まったく相容れない二つの思想の対立こそがもっとも問題なのかもしれないと感じました。
中国共産党からすれば、宗教など存在する意味がわからないのではないでしょうか。せいぜい封建的権力の代表格で、階級闘争的には打倒されるべきものとぐらいしか認識していないのかもしれません。確かに以前紹介したように、チベットでは僧侶階級が庶民を農奴としてこき使い、多くの人々に貧困と短命を強いてきたといわれます。しかし、来世に自分の人生を仮託するチベットの宗教観で、僧侶はとても大切な存在です。前にも書いたように、これを前近代的な生活に庶民を縛り付けるナンセンスな考えだ、と私たち断じるのは簡単ですが、残念ながら私たちはチベット人ではなく、地元のチベット人に意見を聞いたことすらないんです。彼らに私たちの考えを押し付けるのは、安っぽい進歩主義的思考が透けて見える不明も含めて、あらゆる意味で傲慢というものでしょう。
実際、中国共産党が莫大な資金を投資し、開発を進めたとされる地域で、チベットの人々は僧侶の声に呼応して暴動を起こした。本当に経済が彼らを前近代性から開放し、幸せにしたのであれば暴動など起こらないはずでしょう。ガス抜きのために中国共産党が仕掛けた可能性も指摘されていますが、仮にそういう思惑があったとしても、もう現状はそんな共産党の目論見を超えて悪化しているはずです。
中国共産党は、60年もチベットを支配しておきながら、彼らがすべる民の心を何一つ理解しようとせず、また現状に至っても理解できないのかもしれません。同時に中国共産党は、そして中国共産党を擁護する日本の文化人も、イギリスを筆頭にして精神的な虚無感、ニヒリズムに侵食されている先進国ほどチベット問題に熱心である理由を、理解することはできないのでしょう。……、おそらく、たとえばイギリス人たちはチベット仏教の実際もよく知らないまま、キリスト教のフィクションを信じきれない自分の精神を補完しようとしているという、とてもいい加減な話なんですけどね。


それにしても、普段は反権力とかいってる一部の日本の文化人(前に紹介した田原総一朗氏などは典型ですね)が、なんでチベット問題では中国共産党と同じ見解を述べなきゃいけないのか不思議ですね。内政干渉とかヨーロッパの批判は中国への嫉妬だとか、五輪と政治問題を結び付けちゃいけないとか、まるで文化人が(政治家も)中国共産党のスポークスマンのようです。一度でいいから、それと同じ態度で日本の政治を語ってみればいい。小泉政権について、福田内閣について。政府の見解をそのまま自分の意見としてしゃべってみれば、自分のしていることの異常さを認識できるのではないでしょうか。