これはひどい:人権擁護法案は被訴追者への救済を想定せず

産経というメディアはとても独特な色を持っていて、個人的にそれほど好きではありません。
ですが、このニュースが本当ならあまりにも酷い。
人権擁護法案はポストモダン?推進役の東大教授に異論噴出MSN産経ニュース

人権擁護法案の提出を目指す自民党人権問題調査会(会長・太田誠一総務庁長官)は11日、党本部で4回目の会合を開いた。平成13年に法案の必要性を答申した「人権擁護推進審議会」(法務、文科など3相の諮問機関)の元会長、塩野宏東京大名誉教授が経緯などを説明したが、出席議員から異論が相次いだ。

 塩野氏は「法案はポストモダン的なもの」で、人権委員会を「救済制度の至らないところにどこへでも足を伸ばすアメーバ的存在」とたとえ、法案の必要性を強調した。

 これに対し、出席議員からは「個別法で解決できないアメーバ的な人権侵害事案とは何か。法理論だけで済む問題ではない」(西田昌司参院議員)、「裁判所に匹敵する権限を持たせた委員会から、表現の自由への脅威をどう排除するのか」(稲田朋美衆院議員)など異論が相次いだ。

 また、塩野氏は加害者として訴えられた人の救済措置が不十分との指摘には「救済制度をつくることはあまり念頭になかった」と不備を認めた。

 調査会は14日も会合を開き、反対派の百地章日本大教授(憲法学)と、推進派の山崎公士新潟大教授(人権政策学)から意見を聞く。(強調はatomon)

ある意味「反共カルト」に近い産経のことですから(朝日は「反日カルト」かもしれませんが)、塩野名誉教授の片言隻句をとらえて誇張しているのかも知れず、この記事だけでは判断がしづらい部分ではあります。が、「救済制度を作ることはあまり念頭になかった」はひどすぎる。塩野名誉教授は行政法がご専門だそうですが(行政法学者がポストモダンを口にするってのも、笑えないジョークですね)、法学者のいう言葉とも思えません。


現行の法案を読んでみると、確かに加害者の弁明や異議申し立てといった救済措置に関する記述がまったくない。
刑事訴訟では「推定無罪」、「疑わしきは罰せず」という原則があります。そして、地裁から最高裁まで三審制がとられている。こうした考えは、国家権力が万が一人を間違って訴追してしまった場合を考え、幾重にも張り巡らされたセーフティネットと言えます。しかし、この人権擁護法案では人権委員会人権擁護委員への歯止めが全く存在していない。この法案は刑法ではなく行政措置に連なるものですが、人権委員は実際のところ裁判所と警察をかねるほどの裁量権を持ちます。それなのに、彼ら人権委員の弾劾措置などは影すら法案に見えない。


この法案の議論については、Wikipediaの記述が比較的公平かと思いましたが、そうでもありませんね……。たとえば、Wikipediaには罰則規定に説明の誤りがあります。人権擁護法に違反してもそれ自体に罰則は課されない。人権委員らの公務執行を妨害すると罰金を課されますが。もう少し適切なリンクを探したいと思います。確かに人権擁護法案は問題がとても多いですが、右翼の扇情的な反対キャンペーンに巻き込まれるのはごめんです。
それで、法案を読んでいて気になったことがひとつ。この法案では、労働関係の人権擁護規定がとても長いんですね。男女機会均等や船舶関連の労働従事者なんかの人権を擁護するためのものらしいんですが、関係条文を記載する必要があるためかとても詳細に書き込まれています。
ここを読んだときに「ああ、雇用関係における被差別者たちの権利保護こそ、この法案のキーポイントだったのかもしれないな」と思いました。メディアでも取り上げにくい部分でしょうが、被差別者たちからすれば、表現の自由なんて話より明日の御まんまの方が切実ではないでしょうか。


海外に行っていたり帰国しても仕事が忙しくて、これまでこの法案を直接読む機会がありませんでした。ですが、これは凄い法案ですね。
差別はもちろん、絶対に許せません。それに、人権擁護をきちんと監視する組織が(お役所に対しても私人に対しても)あってもいいとは思います。ですがこの法案のように、差別を排除するためなら公共の利益とのバランスを著しく欠いてもいい、という理屈は受け入れられません。
とりあえず、いろんな観点から学ぶことからこの問題への取り組みを始めていきたいと思います。


後記:
この法案では表現の自由の侵害がよく問題視されますが、もっと根が深い気がします。「人権擁護」の美名の下に、ここまで国家権力の拡張を許していいのか。近代社会の市民権はどこへ行ってしまうのか。海外では「テロとの戦い」と市民権のバランスがしばしば議論されますが、なぜ今さら「人権擁護」のためにここまで国家権力の介入を認めなければならないのか。
リバタリアンだのオーソリタリアンだの、国家権力と個人・社会の関係については、法哲学のごく基本的な論題です。この視点からの冴えた論考を探したいのですが、日本の法哲学者は一体何をしているんでしょうか?法哲学会年報では、2004年号でリバタリアニズムについて、2005年号で現代日本での法の支配を特集しているようですが人権擁護法案をタイトルにすえた論文はないようですね。
また、この分野の学者たちは人権擁護法案に対してどんな見解を出しているのでしょう。フォーラムやシンポジウムも主催してないのでしょうか?もし何も開催してないしアピールも出していないなら、彼らの人としての良心とプロとしての存在意義を少し疑いますね。