愛国心と愛国家心

毎日インタラクティブのコラムで、こんな記事があった。
「念力」の時代?

尊敬や愛は自然に生まれるものだ。それは、強いるものではない。出身国は人をつくる属性の一つに過ぎない。国を誇らずとも、自分を誇る道はいくらでもある。

 日本人には、国を批判されると、自分が批判されたと思い込む人が多い。「嫌なら出て行け」と言う人もいる。出身地をあしざまに言われても「この国もいろいろあって」と鳥瞰(ちょうかん)してみる姿勢が必要だ。「オレの国はすごいんだ」とムキになることはない。

ということなんだけど、このコラムには賛成できない。
意図的にか気がつかずにか、この筆者は「国家」の方針やあり方を全肯定する「国家への盲従」と、自然や人・故郷や風土といった「国」そのものを愛する姿勢を混同してこのコラムを書いているからだ。
外国人が日本を批判するバリエーションはたくさんあるが、過去の戦争や現在の政権に絡んだものはその中でかなりの割合を占める。
こうした「国家」、つまりいまや昔の政府に対する批判に対しては、「自分が批判された」などと思わずに冷静に受け入れて議論をする姿勢が大切だ。この筆者の言を借りれば、「政府を誇らずとも、自分を誇る道はいくらでもある」。


しかし、それで即刻「国を誇らずとも、自分を誇る道はいくらでも」ある、といえるだろうか。政府は誇れないかもしれないが、自分の出身地や風土そのものを誇りに思えない人間に強いアイデンティティが確立されるのだろうか。
上のように書くと、極端な愛国主義に響くのだろうか。しかし、単純に考えて私たちは「何語」をしゃべり、「何食」を食べる「家族」から育てられたのだろう。国をひとまず置くとしても、まず私たちは「家族」というグループから切り離して自分の人格形成を考えることができるのか。
もし「できる」というのなら、なぜ社会には家族からの虐待や親の離婚によって正常な人格形成を阻まれる子供がたくさんいるのか。次に、「家族」からやや大きめの「故郷」というコミュニティを考えて、このコミュニティの影響をまったく受けずして人は育つだろうか。
「育つ」というのなら、なぜ沖縄人と青森人はまったく性格も考え方も異なるのか。もっといえば、なぜ日本人とイギリス人はかくも考え方が異なるのか。「育つ」と主張するなら(そして「育つ」と主張すればこそ、「国など誇らずとも自分を誇る道がある」と主張できる。なぜならその場合、国と個人はまったく関係ないからだ)、アメリカに育とうがアフリカに育とうが、まったく同じ個人が育つと考えなければならない。
「出身国は人をつくる属性の一つに過ぎない」という考えは、このコラムの筆者の浅はかな知性と想像力の不足からくる思い上がりだ。


もちろん、上に書いたのはソクラテス風の戯言だ。たぶんこの筆者以外、ほとんどの人が知ってる理屈だと私は思いたい。
しかし、このコラムの筆者があげた海外での日本人の例と同じように、海外で押しの強い外国人の批判で卑屈になり、自分の国を堂々と擁護できない日本人もいることを私は知っている。
というか、私自身がイギリスでそうだったと思う。もちろん、オランダ人や中国人に戦争責任を責められたときも、「悪いことをした」とは言うけど(オランダのケースはともかく、中国についてはそれは事実だろう)改めて私自身が頭を下げたことは一度もない。だが、それだけのことだ。理性的に考えて悪いものは悪いが、自分のアイデンティティそのものを否定する必要はない。靖国問題などについてはもう少し強い論陣の張り方ができたと思っている。


政府を批判することと、国を愛することはまったく矛盾しない。国を愛すればこそ、独自の考えを持って政府を批判するのも民主主義のあり方のひとつだ。安倍官房長官がどんな考えで「愛国心」を使っているのかは定かではないが、よく自民党の政治家や官僚が国民に強要する「愛国家心」と、自民党の政治家を指弾する可能性すらある「愛国心」を取り違えてはいけない。
今の日本では、上のコラムのようにこの二つが混同され、まとめて「いらないもの」として定義されているケースがたくさんある。しかし、健全な政治的な議論を発達させるためにも、日本人は後者の「愛国心」をもっと豊富に持たなければいけないのではないだろうか。