災いにあう時節には

この3ヶ月間、ここのことを忘れてる時間のほうが長かったけど、たまには「ああ、更新しなきゃなあ」とは考えていた。ただ、過去ログを読んであまりの迷走っぷりにへこんでしまったのと、何か読んでる人にとって楽しいものじゃないと書く意味がないような気がして、結局のところ捨て置いていた。


ところが、さっき駅のホームをぶらぶら歩いていたら、「まあ普通のサラリーマン日記でいいじゃん」となんとなく割りきりがついてしまった。とりあえず、サラリーマンとしての視点であれこれ書いてみる、と。いいニュースの提供とかそんなことは考えず、とりあえず自分の視点を文章化してみる。


幸い、最近モバイルでいろいろできる準備ができたので(今も電車の中で書いている)、気が向いたらいろいろ書けるかなあと思うしだい。


で、今思っていること。


「災いに逢う時節には災いに逢うがよく候」。


確か良寛がこんなことを言っていたと思うけれど、この2,3日特にこの言葉をよく思い出す。


私はたぶん精神的にかなり幼稚で、普段生きていても小学生のような負けず嫌いを押し通そうとすることがあるようだ。
何かトラブルに見舞われると、それを乗り越えようとする。それはいいのかもしれないが、乗り越えるときの物事の解釈の仕方が、実に世間知らず・苦労知らずらしい。
なにかつらいことや逆境があると、面倒ごと全体をまるで聖人のように「寛容に許し」、とても肯定的なものであるかのように捉えて感謝したりさえする。「まあこれもありがたいことです」みたいな、済ました顔をしたがる。
ただ、自分がトラブルの消化に必死なときに、それを「ありがたい経験で」とか言っていられるだろうか。そして、どう考えてもたちの悪い、現状から見たら不毛にしか感じられない出来事ってのもあるんじゃないのか。
私は聖人じゃない。現状ではどう考えてもマイナスにしか思えないものは、どう理性で解釈しなおしても心根が納得しない。それはストレスになって沈潜し、結局は自分のメンタルヘルスを悪くしていく。


私は今、ほかの自己啓発セミナー的なものや、ポジティブシンキングをモットーにするいろいろな教えやマニュアルを評価できるほどのゆとりはないし、教養もない。ただ、逆境のコアとなっているトラブルを良くないもの、悪いものととらえて、その不快感を受け止めて生きていくやり方、というのも試すに値すると思っている。
外的環境は、私の一存ではどうしようもないものがある。たまにはまったく不毛に感じられる出来事も、めぐり合わせによっては起こる。外的に環境によってもたらされたすべてを、内心の価値観のすり合わせや改変でどうにかしていくのは、限度があるだろう。悪いものは悪い、と判断して生きていくのも大切ではないか。
さっきあげた良寛の言葉が、本当はどういう意味なのかはまだよくわからない。けれど、今のところ、既述したような意味で捉えてもいいのじゃないかと考えている。
外的環境には、豊作もあれば不作もある。こればかりは、私の一存ではコントロールできない。それを受け入れながら、自分自身の「変わらざる」内心を探索して深めていくのもいいんじゃないだろうかと思う。