ケイト・ブッシュ「エアリアル」を聴く(その二)

長文を読む時間のない忙しい方のために、最初に結論を書いておくと、ケイト・ブッシュのアルバム「Aerialエアリアル」は良いです。刺激的な旋律やリズムはありません。つまり、流行りのお菓子や清涼飲料水を口にするような、即効性の快楽はないです。けれど、空気清浄機のように心をクリーンにする効果が期待できます。以下は、そう考える理由について述べます。


メロディが思い出せない。――けれど、後ろ髪を引かれるような気配が胸に残る。
それが、最初に「エアリアル」を聴き通した感想だった。前に書いた期待度のなさから考えれば、アルバム全体のクオリティははるかに満足がいくものではあった。作品についてはあとで詳しく感想を書こうと思うけれど、前作のヒステリックなまでの官能性へのこだわりは、とりあえず見当たらなかったので。ただ、多少の声の衰えがある気がして、不意をつかれた思いだった。3年ほど前デイヴ・ギルモアとライブで共演した「Comfortably Numb」でもその声量が気になっていたのだけれど、恐らく今の彼女には「嵐が丘」はもとより、直近作「Moments of Pleasure」さえ歌うのが辛いのではないかと思えた。だが、衝撃的だったのはそうした自然の成り行きだけではない。いくつかの曲では声が素人のように揺れ、かすれているように聴こえた。アルバム制作にかける異常なまでの「完全主義」で知られた彼女が、そうしたものを臆面もなく表に出すという態度に、ほんの少しだが打ちのめされた気分になったのだ。
また、最初にも書いたとおり、「エアリアル」を聴きとおしてもあまりメロディが記憶に残らない。スーッと胸に入って、そのまま出て行くような印象で、「強い刺激を与えるメロディがあるか/ないか」といった単純な二分法を駆使すれば、このアルバムはよくある「往年の大家の出がらし」のようなカテゴリーに入るのだろうか、と真剣に考えた。私は彼女のファンだけれども、客観的な作品の良し悪しすらわからないほど盲目的な愛好者でありたいわけではないので。
しかし、旋律は残らなかったけど、中毒性が残った。よくわからないけれど後を引くような感じで、繰り返し聴く。「レッド・シューズ」も入手時繰り返し聴いたが、個人的な相性の悪さからその作業にはわずかな苦痛が伴った。聴き返す曲も数曲に限られていたのだけれど、今回は満遍なく実に「何となく」繰り返す。すると、聴けば聴くほどその計算の深さ、いや、時には故意による計算の放棄を感じさせられ、現在では「これは天才にだけ許される類の豪華な地味さなのだ」とまで思ってみたりする。


簡単な例を挙げれば、CD2枚目5曲目の「Sunset」は、曲の出だしから先の展開が全く読めない。グレゴリオ聖歌をイメージさせる平坦な抑揚(この要素は、このアルバムのほかの楽曲でも散見される)でスタートする旋律がジャジーな空気に滑り込み、すかさずケイト独特の同一音で押し捲るコーラスに様変わりする。この間わずか約50秒、続く余韻はスパニッシュともジャズ調ともいえる物憂げなリフレインにするすると染め上げられていく。この部分はむしろ説明がしやすいほうで、より印象的な「Somewhere in Between」になると変拍子のスタートやカテゴリー分別不可能なほど多様な要素が混じるメロディなど、どこから解説すればいいのか迷うような「変化球」に満ちている。
曲想もさりながら、声のヴォリュームの大小、ビブラートやかすれ、わずかな抑揚であっても、一波形単位で恐らく必然性がある。先ほど、私は声が「素人のように揺れ」ている部分に軽く失望したと書いた。けれど、「The Painter’s Link」で技術的にはお世辞にも上手いとはいえないディジリドゥ奏者のヴォーカルを正面に据えている点を考えれば、今回は「不完全さ」も重要なプロデュースのコンセプトになっていると見るべきだ。また、今回の旋律のチョイスは当然ながら、本人の声量と相談して決められているのだろうと思う。つまり、声が美しく出る範囲で、もっとも印象的なメロディを選んでいったのだろう。そこに一つ、彼女の過去の作品との違いの理由があると思う。(その三へ)