ケイト・ブッシュ「エアリアル」を聴く(その一)

はじめに断っておくけれど、私はケイト・ブッシュ教の信者だ。10年近いキャリア(まーそんな程度だけど)を持つ狂信者だと思う。だからこの段階で、これから私が書く彼女の作品へのいかなる批判・罵詈雑言も、結局彼女のすべてを肯定する基層低音を持っていることを了解されたい。


もちろん、彼女の12年ぶりの最新アルバム「Aerial(エアリアル)」は発売当日に買った。発売計画が最初に告知されて以来数ヶ月、近年これほど心躍る日々をすごしたことはない。稚拙な英語ブログのほうでは無様なほどにうかれている。なにしろ、私にとっても10年近く待った最新アルバムなのだ。
ただ、それと同時に私は何一つ期待していなかった。何一つ、だ。私は前作「レッド・シューズ」が好きではなかった。好きになろうと努力をし、現に数曲は気に入ってもいるけれど、全体的には妙にシンディ・ローパーに近寄った感じの歌い方といい、変に若作りした雰囲気といい、彼女の女としての老化を逆に気づかされて悲しくなることのほうが多かった。
そもそも、古今東西唯一無二のオリジナリティを示した傑作「ドリーミング」で頂点を極め、次作「愛のかたち」では実験作こそ少ないものの懐の深い、「女神性」すら感じさせる楽曲(「ハロー・アース」とか)を発表し、次にいったいどのような進歩を遂げるのかと思ったら「センシュアル・ワールド」から「レッド・シューズ」へと、「一人の女」を主題にして普通のガール・ポップへとどんどん擦り寄っていった。この彼女の推移についてはさまざまな意見があるのだろうが、私の視点からは、二つの近作は彼女がその神性を失っていく過程にしか見えなかった。
「ドリーミング」を発表したころ、彼女はまだ23歳ごろだったと思う。その異常な、彼女以外は誰一人として思いつかなかったようなコーラス方法や音の利用の仕方を駆使し、異様なまでに統一感とグルーブ感のあるアルバムを作り上げたその才能を、現在の彼女に期待してはいけないのだとはわかっていた。そもそも、同じことをやりたくないのだろうし。しかし、彼女が転じた方向で彼女が活きているとも、また思えなかった。
本人が実際どう考えていたのかは知らないけれど、先にも述べたように「センシュアル・ワールド」と「レッド・シューズ」はどことなく、「女=性的なシンボルとしての魅力」への執着が感じられてつらかった。若いころはその肉体にも限界を感じることが少ないわけで、ケイト・ブッシュは顔をしわくちゃにしたり醜く装ったりとやりたい放題だった。それが「レッド・シューズ」のジャケットでは「美白写真」まで登場し、勘違いかもしれないが「ああ、焦ってんのかな」と思ったりしていた。あのアルバムはエリック・クラプトンジェフ・ベック、プリンスが参加していやがうえにもクオリティが高かったはずなのに、私としては楽しめるものではなかった。したがって今作「エアリアル」への期待も大きいものにはなりえなかった。(その二へ)