どことは言わないけど

ある掲示板でこんな書き込みを見つけた。どこのカテゴリーとかどのトピックの、といったことは言わない。もちろん、これが本当に「その職業」の人かどうかも不明。

>411
「手術に失敗」は故意じゃないからな。仕方が無い。
でも、必要ない報道だってわかってて、自分でニュースヴァリューを見出せない
情報を、ただ他紙に抜かれるのがいやだから、デスクにいやな顔されたくないから、
あるいは民衆をあおれて面白いからとか、そんな理由で書いてるとき、もう長くないかなと思う。
そのくせ、精神的にひっかぶる負担は大きい。

俺も、取材中は普通にしてるのに、取材から帰ってきた瞬間に感情の波が
押し寄せてきて、我慢で傷に嗚咽することが時々あるな。

おれ、ブラックジャックを子供の頃に読んで、記者になりたいと思ったんだ。
手塚治虫氏のいう「星を動かすような仕事」のひとつだと思ってね。
でも、現実は違うよな。
ブラックジャックの悩みはいつも高尚だけど、俺の抱える悩みはなんていうか、ちっぽけだ

JR西日本福知山線事故ではマスコミ批判が巻き起こったそうだけれど、こういう書き込みを見たら人々はどう思うのだろう。
私自身は、少なくとも最初の方の報道にニュースバリューがなかったとは思わない。私の意見としては、ボウリングや宴会をスクープと感じたデスクや記者の勘は悪くなかった。ただ、それらがいったんスクープとして社会的に評価されると、マスコミ各社の「横並び」報道体質が無差別的に発動するのかもしれない。つまり、問題意識や事件への切り口などは吹き飛んで、似たような内容の事柄を一斉にほじくり返し始める傾向があるのかもしれない、と思う。
もしそうであるなら、もはや何が問題であったのかという本質は失われている。視聴者・読者は、繰り返されたオーバーラン報道のように意味のない「早出し競走」の連続を見るだけだ。ここにおいて日本のマスコミはすべて思考停止をし、一時的に全く社会への貢献度がゼロになる。
時に、こうしたマスコミの体質はメディアスクラムとして市民を襲う。その原因のひとつは、先にも書いた抜き抜かれを怖れる日本のマスコミ各社の横並び体質と、さらに事件の中で速報性を求める傾向とのコンビネーションにある気がする。マスコミ各社における編集業界内競争では、大事件が起きるとひたすらたくさんのスクープを連発して他社に「圧勝」することで勝負される。しかし、混乱する状況の中で即座に様々な角度の、かつ社会的意義を十分備えたスクープを次々と掘り起こすのは非常に難しいだろう。となれば、数をそろえるためにうわべが新しいだけの、もしくは十分な検討が足りないソースを持ち出してスクープにしてしまうことが多くなるのではないだろうか。
だが、関係者を多数引きずりまわして得たそうした「数そろえの」スクープたちにどれだけの社会的な意味があるのか。また読者・視聴者にとって、それらはどれだけ意味深いものなんだろう。単なる業界内での自己満足のために、マスコミ業界外の人々(遺族や会社関係者)に多数ネガティブな影響を与えるのだとすれば。それはあまりにも「費用」対効果が低すぎる。
マスコミもまた、社会にあっては「当事者」だ。社会で活動し、他者に影響を与えて活動している。今回の事件で言うなら、マスコミが飛ばしたヘリの騒音は確実に関係者の精神に影響し、無思慮で礼節を書いた取材態度は無意味なストレスを招いた。それは「当事者」としてマスコミがしたことだ。決して「傍観者」「記録者」として第三者的な責任逃れが出来る立場にはない。時々疑問に思うのだが、マスコミはどれだけこういう視点を持っているのだろう?もしそうした「社会の中での当事者」としての姿勢を欠いているなら……、マスコミも、もしかしてJR西日本と同じような非社会的な病理を抱えていると言えないだろうか。
マスコミ論では、こういう話って常識的なんでしょうか?